*以下、項目をクリックしていただくと詳しい内容をご覧いただけます。
「アナタは何を目指して建築に携わっていますか?」と聞かれたら、以上のような答えになります。漠然としていて少々大層(タイソウ)な話ですが、意識はそこに向かいます。
もう少しリアリティのある話をしましょう。
民間資金で建築する場合、その資金提供者(多くの場合はオーナー)は自分自身のメリットを獲得するために具体的な要望します。持ち家を建てて住まい手兼オーナーになる施主であれば「日当たりをよく」「こんなキッチンに」「こんな間取りに」「こんなデザインに」というような要望をします。その多くは「自分たちにとってのメリットある」からでしょう。この「自分たち」と意識するのは親、本人、子供あり、たとえば「地域コミュニティのために」ということを強く意識するお施主は少ないと思います。それは当然のことで、資本主義経済にある現在の日本という国の仕組みの大原則です。
一方、あとで詳しく述べますが、建築をつくることやそこに建物があることは、社会性の高い出来事であり、意味深いものだと思います。建築の社会性を意識せざるを得ないのは、こうした側面があるからです。
ということで、私が建築(とくに民間資金による建築)に携わるとき、「個人の要望と社会性をどう結ぶか?どう近づけるか?」「個人所有と社会的な存在をどんなバランスでどこに落とすか?」というようなことに日々考えながら仕事をしています。そうしたテーマに対して「建築設計において最良の答えを見つける」ということが最大の目標です。そんな調整役が私の建築設計におけるスタンスをよく表しているように思います。
そしてもうひとつ。そうした悩みをできるだけうまく解決し、目標達成に向かうために、「本質的な技術」に向かっていこうとしています。施主のメリットを十分に実現しつつ、さらに建築の社会性を意識した“最良の答え”を導き出そうとすれば、どうしても「本質的な技術」を追い求めることになります。実現したい要素が多いほど、本質をみるという発想がないと、筋の通らない、バラバラなものづくりに陥ってしまう可能性があるのではないかと思います。
阪神淡路大震災では建物の倒壊が、その周辺に住む人たちの命を左右しました。建物の構造的な安定性は、その使用者と周辺に暮らす人たちの損害を抑えることになりますし、所有者の金銭的負担を小さくし、環境負荷も小さくしてくれます。
エネルギー問題の解決はわが国にとって非常に重要な課題です。省エネルギーを意識した建物にすることで、住まい手の快適で健康的な室内環境を実現しつつ、光熱費の少なく出来ます。都市部にあるエネルギーの供給を肥大化する必要が無くなりますので、それを支えてくれている地方の電力などの2次エネルギーの供給システムへの負担が減ります。
使い続ける価値が十分に高い建物であれば、将来、高い資産価値を持つ可能性があります。要するに、長い間、使い手からみても、他人からみて人気があるということだと思います。使い手からみたれば、価値を高めるものは、立地や配置、構造や省エネなどの性能になるでしょう。一方、他人からみれば、外部のカタチや意匠が歴史的な価値や町並みをつくる要素として、自慢できるものだったりします。
地域コミュニティを意識し、いわゆる「近所づきあい」がスムースにできる住宅にしておくことは、その住まい手に直接的なメリットを与えるだけではなく、健全な地域コミュニティの形成に寄与するはずです。プライバシーや防犯上必要となる「閉じること」と、「地域に開く住宅」は決して矛盾しません。技術的に解決する手立てはたくさんあります。
建築がもつ構造や温熱、省エネルギーなどの物理的な性能、カタチや意匠、健全な地域コミュニティは、建築単体の中だけに留まらず、外との関係性の中にもあります。こうした意識で「社会的汎用性、社会的価値のある住宅の基本的な要件」を紐解き、そこに施主の個人的な要望やこだわりをうまく応答していくというアプローチが正しいのではないかと思います。
このような考えは、私の体験から来るものだと思います。「もの」づくりが身近にあった生活者であり、その後(自然に)建築士になりました。生まれ育った環境は、大工と植木を生産する兼業農家で、「もの」づくりが「くらし」を支えていました。材木屋の下小屋や畑で仕事を手伝ったことが学ぶことに繋がり、考え方の原点になっているように思います。
大学の在学中、偶然先輩から紹介された現代計画研究所という設計事務所へアルバイトに行きました。主宰者である藤本昌也氏の話を聞いて感動し、そのまま就職しました。氏の考えは、戦後植林された国産材を活用してまちづくりをしよう。山、加工や流通、工務店、地域の人々のくらしを支えつつ、治山やまちづくりに繋げようというものでした。これを設計で表現し、携わることにやりがいを感じ、13年間務めました。その13年間の半分は地域の材と手でつくる木造集合住宅の設計や軸組み工法の技術開発に携わり、残りの半分は公営住宅の建て替えを通じて地域福祉やくらしの再建を同時に解決していこうという仕事でした。同じ時期に、阪神大震災で壊れた住宅やまちの再建に関わってきました。
自宅は‘造ってもらう立場’や住民参加による住宅づくりを経験してみようとコーポラティブの共同住宅に参加して建てました。構造や形(間取り)などに関わる技術的な仕事をしながら、造る側と造られる側の中間で、人の「くらし」からも確認してみる、造る側にも造られる側にも「くらし」がある。これに繋がる設計者の在り方を考え続けてきたように思います。
2000年に独立し、すでに11年経ちました。設計の対象が比較的小さなものになり、戸建て住宅の新築やリフォーム、障害者の方の施設や公的賃貸住宅の改修実証試験などの仕事に携わってきました。常に技術的な本質をみながら、社会とどのように向かいあうか?が関心のあるところです。建築の実務を始めてから、この方向性は変わっていません。たぶん、学生時代からも変わっていないと思います。
たとえば、住宅をつくる過程なら、「建て主の家族が夫婦の将来を考えてみる」「子供との付き合い方や距離を考えてみる」「家族内で暮らし方の希望(こう暮らしたい)を話し合う/個人で自問自答してみる」また、「大きなスケールや時間軸で鳥瞰的に眺めて、チェックしてみる」、こういった思考や話し合いの機会つくることや技術的な支援をすることだとも言えます。
設計から工事にかけて、大きなお金が動き、目の前に“大きなもの”が出来上がってくるので、建て主を惹きつける力が建築にはあります。もちろん、目標は「そこで、より良く暮らす」ことです。そのために、技術的な作業として処方箋を書くことになっているのだと思います。
原寸のレベルでは、A)を具体化するための的確な詳細(ディテール)があります。いわゆるプランニングのレベルでは、B)に関連した適切な構造計画や省エネで快適に暮らせる、素直な建築の造り方があります。敷地に対する空間の切り取り方や窓の開け方などです。こんな現象が起こるはずなのでそれに応じた構造にするとか、こんな敷地条件なので、日射を上手に取り入れたり、遮蔽したりすることとか…。ここまでは、施主が制御可能な範囲です。
しかし、もう少し大きなスケールのC)やD)でみると、さらに色んなことが見えてきます。A)やB)のレベルで色んな工夫をするよりも、C)やD)のレベルでやった方が効率いいこともあり得るでしょう。つまり、戸建て住宅を集住体として解くとか、地域給湯や地域発電などの発想も視野に入れたりするようなことです。実際の戸建住宅の設計ではなかなかそんな発想が具体として活用できないことが多いのですが、常にそうした可能性を考えておくことが大切だと思っています。
このほか地域福祉の視点から住宅を考えること。社会的弱者へのケアを考えた場合、ひとつひとつの住宅や家族単位で対応するよりも、地域単位で対応した方が効率的なこともあります。少なくとも、そのようなソフトの仕組みがあれば、それに応じた建築の作り方を考えたいと思います。
条件によっては、視野を広げて見渡しても、まったく徒労に終わってしまうかもしれません。しかし、見方を変えると、枠組みの中で解決できなかったことが、解決の糸口がみえるとか、その問題の大きさを認識できるチャンスも出てくるように思います。隣の枠組みへ広げ、もう一歩先の視点から、どんな景色が見えてくるのか?きっと、そうした風景の輪郭が建築にとっての本質的なこと、重要なことを浮かび上がらせてくれると思います。
現在の日本のくらしを支えるエネルギーや食糧収支は、自転車操業といってよいと思います。一歩立ち止まると立ち行かなくなる仕組みです。消費を誘導し、需要を支えるため、毎日輸入して続けています。きっと、長期的には無理が続かないように思います。この状態もやがて、否応なしにある本質的なところに収斂してしまうのだと思います。「一体何のために?」と矛盾を感じながら、自転車をこぎ続けているのかもしれませんが…。
戦後の日本では持ち家政策によって、金融公庫などの公的資金を使いながら、住宅は個人の自由に委ねられています。持ち主側からみると、「まずは賃貸に住む」⇒「住宅を取得し、その後は核家族で20年ほど住む」⇒「さらにその後、夫婦だけで20年ほど住む」という流れで住宅を残してきました。あるいは、「住宅取得後25年ぐらい経過したところで建て替える」という形もあるでしょう。
一方、まちの視点から見れば、ある時点で住宅が建設され、まちの骨格が形成され、住人が20年×2期間=40年ほどで‘通過して行き’、住宅が残された!となります。そんな住宅が後世のまちの骨格と景観をつくり、まちのエネルギー消費や安全性を規定してしまっています。現在、私たちが造っている住宅も50年後100年後のまちを形成することになります。残念ながら、私たちはその場に居ることができないので、将来その場所を通過する人に、助言や言い訳をすることが出来ません。
繰り返しになりますが、関わりの度合いの大小があっても、住宅が社会的資産であるとするなら、長期的視野にたって本質的な方向、つまり筋を通して造っていくことが、少し長い時間軸でみると、大多数の人の利益に繋がっていることが分かります。
そこで必要な視点は、住宅の「変わらないもの」と「変わるもの」、またその中間の「変わりづらいもの」を考えてみるということです。実際に挙げてみましょう。
大体このように区分けしておくと、前で述べたスケールと時間軸でサーベイした時に、上から順にその状況を理解し、応答させていくことで優先順位が見えてくるように思います。また、「変わるもの」に関しては、変わるサイクルを予め見越しておくことができます。判断がつかないことに関しては、判断を後回しにしておくというスタンスがベターでしょう。それは「変わるもの」を適当に選択するという意味ではありません。たとえば、設備器具の選択は省エネを考える上で重要ですが、エネルギー供給の変化にうまく対応できるような幅を持たせておきます。「リスクを最小限にする」と言えばわかりやすいかもしれません。
住人のくらし形態(世帯構成)は、住宅づくりの動機になりますので重要です。また、次に述べる改修にも関わってくる問題になります。
時間軸において、「変わりづらいもの」は50年程度の期間、「変わるもの」は15~20年の期間の差があると考えられます。新築時にそれらを見越してどこまで投資するかは、その変化の可能性と交換スパンの両方をにらみながら考えるのがよいと思います。
新築であれば、どの程度お金をかけて、どの程度のものを造るかは、基準法や性能表示や公庫仕様などの指標と市場経済(新築のおよその相場価格)が、ある意味では決めてくれます。造り手は、面倒だと言いながら、その指標によって物づくりをすれば、一応は安心できる仕組みになっています。100年住宅、200年住宅といったキャッチフレーズに従い、その目標に向かって「こんな仕様で、こんなメンテをして・・・」を決めれば、とりあえず安心できます。
しかし改修の場合は、「どの程度お金をかけて、どの程度のものを造ることが適切か?」に対して答えるのは難しいと思います。すぐ前に挙げた、新築での指標(基準法や性能表示)だけでは目標の幅が大きくて、フワフワした感じになっています。
。
改修にどれだけのコストをかけるべきかも難しい。改修の幅がものすごく広いので、「これくらいのことをすればいくら」というような相場(合意)が形成されていません。部品交換型のリフォーム(キッチンを換えるとか、外壁を塗り直すとか)なら、リフォーム業者のチラシがその相場をつくっていると考えてもよさそうですが、耐震補強や断熱補強や間取りを変えるような改修についてはコストの情報がほとんど表に出てきていません。こうした改修によるメリットを具体的に表示することが難しいことも相まって、どれだけのコストをかける改修が妥当なのかがとても見えにくくなっています。
たとえば新築コストを基準にして、そのコストと同じだと市場的に受け入れられないと考え、申し訳なさそうに、「新築の7~8割でどう?」という言い方は、新築よりも2~3割安いんだからと説得性があるような感じがしますが、どうも釈然としません。6割が適切か?5割が適切か?きっと、キリがありません。おそらく持ち主がいくら出せるか?という経済的状況で改修コストが決まり、その内容が規定されているのでしょう。
建築基準法は、改修に対してこれまで十分に準備されているとは言えません。新築、増築、改築、移転、大規模の修繕や模様替えの定義があっても、改修や減築などの定義はないのです。これが改修工事をとても曖昧にしてしまっている最大の原因です。
定義づけされている工事であれば、特に構造規定では厳しい制限があります。しかし、定義に達しない範囲の改修については、具体的な規定がありません。大雑把にいうと、面積が増えなければ(一旦除去して部分をつくり直す改築を含む)、少なくとも確認申請の必要がないのです。だから「自由にできる」という言い方もできますが、「何でもアリ」というとらえ方のほうが現実を表しています。
戦後の持ち家政策を促した公庫や公営住宅などは、積極的に住戸数と規模の拡充を進めてきました。住戸数は飛躍的(約2.5倍)に増え、4人以上あった平均世帯人数は、2.55人(2005年)と減り続け、3人未満の世帯が増え続けています。また、空き家が増え、戸数も住戸面積の拡大も必要がなくなってきています。つまり、わざわざ増築をする動機が低いと言えます。
具体的な狙いとしては、分かりやすい機能的改善を行いながら、性能の向上を実現していくことになるのですが、既存物の状態に応じた改修の程度、あと何年もたすのか?といったビジョンが先に必要になります。
たとえば、古い住文化を継承してくれるような古民家が対象であれば、お金をかけてでも、50年先100年先に残せるように改修手法を組み立てたいところです。仮に、持ち主に金銭的な余力がなかった場合でも、今回はこの部分をやっておきましょうと言って、優先順をつけながら、将来の持ち主に託す考え方でもよいでしょう。
相続する家族がいない方が持ち主で、高度成長期に乱開発された日当たりの悪い敷地に建っている住宅を改修されるなら、少し時間軸の短い、コストを抑えた改修方法の提案が必要になってきます。
建て方は普通の住宅でありながら、敷地周辺の状況や空間の切り取り方がよく、日当たりがよい場合なら、構造や温熱補強を十分すれば、後の社会にとっても価値ある資産になります。工事費をかけて十分な改修をしてもいいし、お財布具合に合わせてもいいことになります。
きっと、現在の持ち主がだれであっても、一定の客観的な判断が可能だと思います。俯瞰的に、その建物の社会的な価値を見るということです。そこでは先に述べた「スケール」と「時間軸」による判断が目標設定を助けてくれると思います。内側からの視点(近視眼的に、建物だけに焦点を合わせる視点)と決まりきった方法だけでは、改修の程度を決める根拠は見つからないでしょう。最初のほうに述べたように、「社会的な視点で見て基本的な要件を見出す」⇒「そこに個人的な要望などを付加していく」というアプローチが正解なのですから…。
そこが出来れば、あとは目標に応じた改修の方法を複数案と優先順を持ち主に示すことで、「社会資産≒個人資産」としての住宅改修の位置づけが見えてくると思っています。
。
【優先順位(重要順位)】
1位:①「構造の安定」
2位:②「火災時の安全」~⑤「温熱環境」
3位:⑥「空気環境」~⑩「防犯」(ただし、状況によっては2位グループに入ることある)
このように、①構造の安定だけは、単独の扱いで全く別次元です。集合住宅や福祉施設などの特殊建築物なら、①に加えて避難経路の確保も優先度は高くなります。災害時であっても、人がより良いくらしを営むために造った建物が原因となって、人命に影響を与える事態は避けなければなりません。たとえ改修であって、現状を全て確認できない場合でも、人命の安全確保に向けて何か一手を加えます。構造の安定は、質量(地震)と面積(風圧)を持った建物を成立させる条件です。建物に関わる他の全ての項目よりも優先します。
構造規定は、仮定で成り立っています。構造計算では、理論から導き出された近似式に実験データで補足します。計算では安全率をかけ、構造体はモデル化します。詳しい説明はややこしいので省きますが、「仮定」「近似」「明確に根拠をとらえられない安全率」「モデル化」といった前提で行われる構造計算において、重箱の隅をつつくような少数点○○以下の細かな数字の大小へのこだわりは、余り意味を持ちません。
一方では理論や構造計算によるアプローチ以外のものとして(理論を確認する/補足する/見直すことが目的)阪神大震災以後、実物大の建物に‘ある地震波’をかけてその挙動を見るような実験が重ねられています。しかしそれは年間にせいぜい10棟程度であり、「地震に対する挙動を決める要素(建物の形状、耐力壁の位置、想定される地震波、地盤の特性)」の膨大な組み合わせのすべてを到底実現できるものではありません。
性能規定の耐震等級は以下のように規定されています。
これをそれぞれ等級1として、その何倍かの強度を等級2や等級3として定義されています。しかし、こうした考え方での等級に頼り切るのではなく、サードアーム的な方法論を加えておくべきだと思います。具体的には下の3)のような方法を加えるということです。おもしろいのは、こうした方法の合理性が「物理学的な直感」で素直に導かれることです。構造計算などしなくても、「こうしておけば、建物の倒壊を相当に防ぐことができるはずだ」ということがわかるものです。なお、これはとくに改修において重要な視点になってきます。
地味な項目ばかりですが、一般的な木造住宅の場合について列記します。
パッシブデザインという言葉があります。これまでは「プロの方であれば、一度は耳にしたことがある」というような状況でしたが、ここ最近では非常に関心が高くなっています。おそらく、ごく近い将来には「一般市民も一度は聞いたことがある言葉」になっているでしょう。ただ、あまりに流行が速いと「限られた技術だけをとらえたパッシブデザイン」「逆に、なんでもかんでもパッシブデザイン」という状況になるかもしれません。
私は、日本におけるパッシブデザインに込められた意味としては「省エネで快適な室内環境を継続的につくることを目的する、自然環境との上手な建築的付き合い方」だと思っています。passive(受動的)と言いながら、太陽光を遮蔽する技術も含まれるのでcontrol(制御)であり、environmental adaptation(環境に適応する)ことです。
では以下に、私が考えるパッシブデザイン上の工夫やお勧めしたい内容について述べてみます。
【温熱環境編】
【換気編】
【給湯編】
・年中豊かな日射がある
↓
家庭で給湯に使っている消費エネルギーは≒30%弱を占めていて大きい。日射を効率よく受けることができる方位と角度(可能なら南面で30度ぐらい角度が望ましい)に太陽熱給湯器を設置して太陽の熱を使って給湯する。水道の水圧にもよりますが、自然循環・直接集熱式の太陽熱給湯器なら、機構が単純だし、消費エネルギーがないのでお勧め。
【光環境編】
・年中豊かな日照がある
↓
昼光利用できるようにする。直射、反射、拡散を利用して、外部から内部へ太陽光を導いて、照明エネルギーの消費を抑える。
ささやかな個人的な住まいづくりが、50年先100年先のまちを形づくっています。意図していないなら、形づくってしまっています。50年ぐらい先なら、現在建築されているものは、よい骨格やよいパッシブデザインがそこにあれば、別の所有者が住んでいるでしょう。きっと、「平成テイスト」とか「平成モダン」なんて名前がつけられて取引されているでしょう。
100年先まで残っていたしたら、伝統住宅になって、ファンがいるかもしれません。遺産です。また、それまでの期間に放出されたCO2や消費されたエネルギーも遺産として残ります。客観的な魅力に乏しいものなら、廃墟になっているかもしれません。廃棄されていたとしても、敷地の残像がある確率は高いでしょう。廃材はどこかの埋立地に遺物として残ります。これらの遺物が、後世にとって有り難い贈り物なのか、厄介なツケなのか。その量と質の積算値が問われています。
前で述べた更新サイクルの長い「変わらないもの」とパッシブデザインの大部分はラップしていくと思います。たぶん設備は3~4回交換されているでしょう。エネルギーなどの仕組みも変わっているかもしれません。しかし、「変わらない部分」だと考えられるものが残っているとすると、この部分に労力を注ぐことは、意味があると言えます。直面する仕事で、今までの枠組みを超えたスケールと時間軸で切り取って考えること。気がついたことを軌道修正すること。その先に、多くの人が希望する「より良いくらし」があるのだと思います。
将来、まちでこんな会話があったらいいと思います。
「海外で紛争があって、エネルギーの輸入が滞り、計画停電になった時」
Aさん:「昨日の寒かったですね。夜は停電で暖房が使えなかったと思うけど、寒くなかったですか?」
Bさん:「昼間晴れていたので、縁側の雨戸を空けといたら、お陽さんがよう入って。」
Aさん:「そういえば、昨日は朝から夕方まで、ええ天気でしたね!Bさんの家でしたら、南側が空いてるから、よく陽が入るでしょ。それにしても、外があれだけ寒かったら、部屋の温度はひと桁?でしたでしょう」
Bさん:「いやいや、寝る時で18度ぐらいはあったし、朝起きても15度はあったので、ガウンでウロウロしてました。」
Aさん:「へぇー。御見それイタシヤシタ!それなら、当分大丈夫ですね。では、後ほどグランドで待ってまーす。今日はメンツが11人ギリギリなので、休まないでくださいね。」
Bさん:「了解!了解!今日晴れてたら、試合の後、そのまま家で風呂に入ってください。風呂上がりに、みんなで一杯やりましょう。」
Aさん:「では」
(別れたあとに、歩きながら悩んだ。晴れてたら?…どういう意味だろう。きっと、風呂と関係があるんだろうな…。あの人の話は、時々クイズのようだな~。まー、いいか。着替えを持って行かなくっちゃ!それとエビス。)
と、ごく普通の日常生活があるのでした。いろんな災害が起こっても、自然と上手に付き合い、日本中どこにいても、こんな普通の会話がある。いつもある。より良い「くらし」を包む「ものづくり」でありたい。
│TOP│ | │住宅│ | │改修│ | │施設│ | │計画│ | │設計│ | │提案│ | │工房│ | │経歴│ | │mail│ |